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長篠合戦図屏風(複 製)

長篠合戦図.JPG (91457 バイト)

全  体

長篠合戦部分.JPG (89992 バイト)

部  分(左が織田・徳川連合軍、右が武田勝頼軍)

寸   法    縦27.7×横61.2cm、

入手方法    実物は名古屋市にある徳川美術館にあり、長く尾張徳川家に伝来したものであり、「小牧長久手合戦図屏風」と一対をなすものである。絹本着色の六曲一双で、縦159.5×横379.8cmの大きさである。本品は名古屋市博物館の売店で購入、5000円。

解   説    天正3(1575)年、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が三河の設楽郡の長篠(愛知県新城市)で戦った様子を描いた屏風絵である。長篠城は信濃と三河の境にある戦略的に重要な城で、当時は徳川家康配下の奥平信昌が守っていた。5月8日に勝頼が1万5000人の兵を率いて、長篠城を取り囲んだことから戦いは始まった。家康は信長に援軍を頼み、総勢3万8千人(徳川軍8千人、信長軍3万人)は長篠城から西方2kmの設楽原に布陣、連子川を挟んで両軍が対峙、同月21日についに決戦が行われた。当時、武田軍は日本最強の騎馬軍団といわれたが、徳川・織田連合軍が有する3000丁の「火縄銃」の前には無力であった。鉄砲隊の中心は佐々成政や前田利家率いる足軽鉄砲隊で、火縄銃の欠点である時間がかかることを3人一組で交互に発射することで克服し、騎馬の侵入を防ぐために設けられた柵(馬防柵)の後方で次々と相手を倒していった。当時、鉄砲は武器としては中心ではなく、弓、槍、刀などの従来の武器のひとつにすぎなかった。しかも鉄砲は城攻めなどに利用され、野戦での実践はあまりなかった。これ以降、全国の戦国大名は大量の鉄砲を購入して鉄砲隊を組織し、実践化していった。まさに戦法が「一騎打ち」から「足軽鉄砲隊」に変化した記念すべき合戦である。これにより合戦が時間短縮され、統一が進んだことはゆうまでもない。合戦跡は以外と狭く、連子川も小さな小川である。現在、馬防柵が復元されており、当時を忍ぶには最適である。

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